『コーヒーの鬼がゆく 吉祥寺「もか」遺聞』感想

私は頑固であることや客にいろいろ注文をつけることを売りにする飲食店が苦手だ。くつろぐための食事の時間くらい客の自由にさせてくれと思う。
だが、この本に登場するコーヒー店の店主はそんな客は視野にいれず、自分のコーヒー道を迷うことなく突き進んでいる。それは自分が焙煎し自分が淹れたコーヒーに絶対の自信を持っているからだ。そんな風にコーヒーに憑かれた人たちの話は不思議と心地よかった。それは彼らにコーヒーに関する揺るぎない信念と確固たる哲学があるからだと思う。

自家焙煎コーヒー店の御三家と言われた、吉祥寺にあった「もか」の店主、標交紀はコーヒー馬鹿、コーヒーの求道者と呼ばれるくらい年がら年中コーヒーのことばかり考えている人だったという。新婚旅行もあくまで各国のコーヒー店めぐりが主体。観光なんて頭にない。しかし、世界中のコーヒー店を回っても満足のゆくコーヒーにはなかなか出会えない。そのため、ホテルに戻ったら日本から持ってきたネルフィルターで自分で焙煎し挽いたコーヒーを淹れ、夫人と二人「やっぱりうちのコーヒーはおいしいね」と一服していたらしい。

「もか」のコーヒーには感動がある、と筆者は言う。感動のあるコーヒー、私にもその意味はわかる。当たり前だがチェーン店のコーヒーに感動はない。自家焙煎コーヒーにも単においしいものはあっても感動するほどのコーヒーは稀だ。私が今まで一番感銘を受け、感動を味わったのは、障害者の方が働く作業所で作られたコーヒーだ。欠点豆を丁寧に取り除き、心を込めて焙煎し、挽かれている。そのことが手にとるようにわかるコーヒーだった。なにしろ味の深みが違う。そして余韻がある。何度でも飲みたくなるコーヒーだ。
「もか」のコーヒーもそのようなものだったのなら、一度は飲んでおきたかった。

標交紀と親しかった「北山珈琲店」の店主である北山氏はこう言ったという。

「世の中には生きることに疲れ果ててしまった人がいるでしょ。息をするのも苦しくて、学校にも会社にも行きたくない。家庭でも居場所がなくて心はカサカサ。悩みを聞いてくれる友もいない。私はね、そんな人に来てもらいたいんだ。私のコーヒーを飲んでもらい、まずはひと息入れてもらう。何もかも忘れ、コーヒーを心ゆくまで味わってもらう。で、少しでも人生に対して前向きな気持ちになってくれたら、もういうことはない」

また、別の店主はこう言っている。

「美味しいコーヒーを飲みたいと思われたならば、私共に良い仕事をさせてくだすっても悪くないはず。客だからといって、作り手側の心情を害し気持ちを踏みにじったら、決して美味しいものにはありつけないということも知っておいてほしい」


一杯のコーヒーにここまで気合いを込めている店主。その気持ちに向き合うためには少しくらい偏屈で頑固な店主の教えを守ってもいいような気がした。

コーヒー店で修行する弟子の苦労は正確に味を再現するレシピがないことだという。レシピどおりに作っても本家本元の味が出せるわけではない。そこでは長年培うことで生まれる勘がすべてだ。
札幌にあるコーヒー店の店主、襟立稔規はそのことをこう表現した。

「ものの味というのは形には残せない。そのことがとても理不尽に思え、残念でたまらなかったんですけど、少なくとも味わった人の記憶には残る。その場限りの刹那的な輝きですが、そこに生涯をかけるような生き方があってもいい」

コーヒーに生涯をかけた人間、かけようとする人間の想いには、もはや敬服するほかない。

この本には主人公となっている標交紀の他にも襟立稔規、北山富之といったコーヒーの鬼たちが何人か登場するのだが、みなとても魅力的だ。読めば必然的に彼らの淹れるコーヒーを飲みたくなるだろう。

とはいえ、コーヒーにそれほど思い入れがない人やコーヒーに感動を求めていない人は「小うるさいことばかり言う偏屈者ばかりだ」と感じるかもしれない。

だから、この本は真のコーヒー好きにしか薦められない気もする。しかし、日本におけるコーヒーの歴史や、コーヒー求道者の評伝を読みたい人には是非とも読んでもらいたい本だ。少なくとも、最近読んだコーヒー関連本の中では一番素晴らしい本であることに間違いはないし、読んで損はない。