大江健三郎疲れ

大江健三郎作品の感想を書き留めようと始めたこのブログだが、いま現時点で大江健三郎最後の作品である『晩年様式集』の途中で躓いており『新しい人よ眼ざめよ』について書くことができないでいる。

『晩年様式集』は大江健三郎の化身である長江古義人が、東日本大震災を経て自作を振り返り「これで良かったのか」と悩み苦しむといった体の小説なのだが、当然ながら『新しい人よ眼ざめよ』も読み返され読み直される。

それが肯定的なものであれば私もつらくならないのだけど、長江は中年となった息子のアカリさん(光さんがモデル)の言動により自責の念にとらわれ「これで良かったのか」と悩んでしまうのだ。
私もそれを読み、私の読みはこれで良かったのかと悩んでしまっている。

大江健三郎の中期以降の作品はあからさまに私小説的だし、作家自身も意図的に私小説として読まれるように書いている。
しかし私には「『これは私小説に見えるけど私小説じゃないですよ』と言い訳しながら書かれた私小説」にしか見えない。何度大江健三郎が「語りの手法」に言及しても、いやそれは言い訳でしょと思えてしまうのだ。

もちろん大江健三郎はそのことにも自覚的だから、小説の中で周囲の人間にそう批判させる。その批判に長江は応えあぐねるが、結局「あれもフィクションだしこれもフィクションなのだ」と言い訳する。そしてまたそれを娘や妻が批判する。もう入れ子構造極まれりだ。

大江健三郎の小説を読み続けることは大江健三郎の人生に取り込まれることでもある。同じ作家の小説を長きに渡って読むとはそういうことだ。小説世界に浸るだけでは済まされず、必然的にその小説を書いた作家を深く知る(知った気になる)ことにもなる。私はずっと大江健三郎に付き合ってきて精神的に参ってしまった。鬱は伝染るから。

そう、いま私は鬱状態なのだ。たぶん。
それは大江健三郎のせいと言うよりは新型コロナウイルス騒動のためかもしれない。新型コロナウイルス騒動で様々なことに自粛要請が出され、日常生活もままならなず、休日も気楽に遊んだり友達に会うことが出来ない。そりゃ気も滅入る。

そんな風に気が滅入っているときに大江健三郎を読むのは難しい。『新しい人よ眼ざめよ』を読み返すことは出来ても『晩年様式集』を読み進めることは苦行に等しい。自分が肯定的に読んでいる作品を作者によって否定されるのはつらい。まあ読み進めれば転換があるのかもしれないけど、そこまで耐えて読むのもなんだか違うような気がする。

だからまあ、また読みたくなるときまで『晩年様式集』は放っておくことにしようと思う。『新しい人よ眼ざめよ』については書きたくなったら書く。

しかし例えば村上春樹堀江敏幸イタロ・カルヴィーノ花田清輝を長きに渡って読んでも疲れたり鬱になったり沈み込んだり悲しくなったりしないのに、なんで大江健三郎を読むと悲しくなるんですかね。芥川龍之介を読んでるときと同じ感覚なのかなあ。

晩年様式集 イン・レイト・スタイル

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