古井由吉と大江健三郎

先日、古井由吉が亡くなった。
古井由吉の著作はデビュー作と『楽天記』『仮往生伝試文』が印象に残っている。

古井由吉のデビュー作である『杳子』は、精神病を患った女性を保護者としてでも共依存の対象としてでもなく、あくまでそのまま受け容れる大学生の主人公が「健常者にはかくあってほしい」と思わせる包容力があり、二人の明るくはない未来を予見させはしても、どこかしら救われる感じがした。

その後の著作は、まさに夢の中で書かれたような不思議な酩酊的雰囲気が心地よく、どこか内田百閒を想起させるものがあったが、やはり古井由吉古井由吉でしかなく、唯一無二の存在感を日本文学会に示していた。

その古井由吉大江健三郎は『文学の淵を渡る』という対談集を出しており、大江健三郎にとって古井由吉は、同時代人として尊敬する作家の一人であったと言える。

だが、その大江健三郎がどの文芸誌にも古井由吉の追悼文を書いていない。『群像』にも『新潮』にも『文藝』にも寄稿していない。
これは由々しき事態だ、と思った。

いったい大江健三郎はどうしているのか。
おそらく追悼文も書けないほどに深い悲しみにとらわれているのではないか。

現在、大江健三郎は重度の鬱病を患っているという噂がある。それが事実であれば追悼文を書けるような精神状態ではないだろう。

私は大江健三郎が心配だ。新作を書けないことに悩み苦しんでいる彼が心配だ。
大江健三郎の作品に慰めや救いを見出してきた身として、彼になにか言葉をかけてあげたいと思う。だが、なにを伝えれば彼を慰めてあげることができるのだろう。私にはわからない。そのことが悔しい。

文学の淵を渡る

文学の淵を渡る