大江健三郎『新しい人よ眼ざめよ』「無垢の歌、経験の歌」を読む

大江健三郎『新しい人よ眼ざめよ』は七編の短編が収められた連絡短編集である。大江健三郎作品の中でも読みやすい文体、把握しやすい内容、想像しやすい情景で描かれており、なおかつ、読んでいて魂が慰められる。そのためか、私はこの短編集を幾度となく読んでいる。そして出先や旅先で読みたくなって再度購入したこともあり、今『新しい人よ眼ざめよ』は家に三冊ある。友達にあげたりもしたから、実際には五冊はあったと思う。
しかしそれほどまでに好きな本なのに、誰かに向けてこの小説について語るとなると途端に口が回らなくなる。何から話せばいいのかわからなくなる。私は今まで何を読んできたのか?

文庫本の裏表紙にある筋書きのとおり、この本は障害を持つ長男と主人公である作家(意図的に大江健三郎本人と思われるように描かれている)の「共生」を書いた連作短編集だ。この筋書きを聞いただけで、大江健三郎が知的障害を持つ作曲家大江光の父親であることを知っている人は「あ、私小説ね」と思うかもしれない。それは間違いではない。
ただ、大江健三郎の作品が光さんの誕生以来すべて私小説の体をとった形で書かれていることに注意したい。文学理論を持ち出すまでもないが、「作者」と「語り手」はたとえ名前が同じだとしても同一人物ではないのだ。そのことに誰よりも意識的で、それを効果的に利用しているのが言わずとしれた大江健三郎本人である。

今回私はこの本を一編一編読んでいくことにする。詳細な内容についても記述・引用したいので、ネタバレが嫌な方やこれから読む予定の方はここで読むのを止めたほうが懸命だろう。


第一話「無垢の歌、経験の歌」を読む

語り手である作家は家族を置いて旅に出、そして帰還する。旅のお供はマラカム・ラウリーとウィリアム・ブレイクの詩。
語り手が旅に出ている間、語り手の息子「イーヨー」は、知的障害者という属性には関わらぬ仕方で、怒りを充満させ周囲に迷惑をかけ家族を怯えされていた。台所で家族相手に庖丁をかかげもしたほどに。

語り手の妻は、イーヨーを「病院に収容してもらうほかないかと思ったわ」と話す。

普通なら滅入ってしまう挿話だし、語り手も滅入ってはいるのだが、彼はなぜか直接感情を顕にはせず、ウィリアム・ブレイクの詩の一節を頭に思い浮かべ、まるで他人事かのように現在の状況を俯瞰する。それは無責任な態度にも見える。

イーヨーはなぜ怒っていたのか。父親が自分を置き去りにし、死んでしまったと思ったからだ。

ーー死んだのとはちがうでしょう? 旅行しているのでしょう? だから来週の日曜日には帰って来るでしょうが?
ーーそうですか、来週の日曜日に帰ってきますか? そのときは帰ってきても、いまパパは死んでしまいました、パパは死んでしまいましたよ!
「無垢の歌、経験の歌」より


この「いまパパは死んでしまいました」には笑い飛ばすことのできない深刻さがある。イーヨーにとって父親の生死はいわばシュレディンガーの猫と同じ状態であり、彼にとっては「いま」父親がいないことが不安であり絶望なのだ。そして、いったい父親が本当に無事に帰ってくると誰が保証できるというのか? なぜ私たちは人が旅行に出たときに無事に帰ってくると根拠もなしに考えていられるのか?

とはいえ父親は帰還し、父と息子は「足」を媒介として和解する。その心あたたまるエピソードについてここでは書かずにおきたい。

語り手である作家は障害児学級に通う親たちに向けてこう語る。

「この障害児学級の息子の同級生たちのために、そのような子供たちが将来この世界で生きてゆくためのハンド・ブックというものを書きたいと、私は考えるようになりました。そのような障害児学級の子供に理解できる言葉で、この世界、社会、人間とはどういうものかをつたえ、それでは元気をだしてこれらの点に気をつけて生きていってくれ、といいたいと考えたのです。」

そして、こう考える。

「僕の死後、決して息子が生の道に踏み迷うことのない、完備した、世界、社会、人間への手引を、それもかれがよく理解しうる言葉で、実際に書きうるものかどうかーーむしろそれは不可能だと、すでに思い知らされているようなものではあるが、それでもなんとか自分として、息子への定義集を書くべくつとめることはしよう。むしろ息子のためにというより、他ならぬ僕自身を洗いなおし、かつ励ますための、世界、社会、人間についての定義集を書くつもりで。」

また、語り手はこう夢想もする。

「僕が死ぬ日、経験として僕のうちに蓄積されたところのすべてが、息子の無垢の心に向けて流れこむ。もしその夢想が実現することがあれば、息子はすでにひとつかみの骨と灰になった父親を地中に埋めた後、これから僕の書く定義集を読んでいくだろう。」

重い知的障害者が、書かれた言葉を理解することができるのか私にはわからない。ただ、彼らに向けて<生きていくための>定義集を書きたいという「僕」の気持ちは理解できる。というより、私自身が<生きていくための>定義集を求めている。だからこそ上記の引用文が胸にしみるのだ。なぜ生きていかねばならないのか、という問いに答えがないのなら、せめて生ききるための指標が欲しいではないか。自分に向けられる無限の愛が、その愛が指し示す希望が欲しいではないか。


「流れる涙を見て 自分もまた悲しみをわけもたずにいられるか? 子供が泣くのを見て父親は悲しみにみたされずにいることができるか?」


語り手が引用するこのウィリアム・ブレイクの詩の一節に私は救われる。ここで言う「父親」は「神」に置き換えることができるだろう。私は信仰を持たないが、なにかそのような大きな存在が自分の生きていく上での悲しみをわけもってくれるのなら、孤独が少しは和らぐとも思う。未明の未来を受容しうる力を差しだされたようにも思う。

たぶんイーヨーもそうなのだ。だから父親が自分を置き去りにし「死んでしまった」ことに怒りをおぼえ、悲嘆にくれたのではないか? 彼は父親の不在を心から悲しんでいたのだ。まるで神に見捨てられた子羊のように。

しかしその悲嘆を語り手が後になって読み取りえたのは、皮肉にもある作家が語り手の悪戯に対して見せた「大きく重い悲嘆を浮かべた眼」を通してなのであるが。

新しい人よ眼ざめよ (講談社文芸文庫)

新しい人よ眼ざめよ (講談社文芸文庫)