大江健三郎「蚤の幽霊」を読む

日々の生活の中で心底孤独を感じるときはいつだろうか。愛する者との死別や離別は非日常だから抜きにすれば、私は悪夢や金縛りから目覚めたときだ。悪夢から必死に逃れて暗闇の中で目覚め、自らの激しい鼓動と脈拍に恐れおののき、もう悪夢を見たり金縛りにあったりしないようにと懸命に祈るとき、私は完璧なまでに孤独だ。誰にも救いを求めることができず、誰も私を救いはしない。私は地球上のすべてのものから見捨てられている。

眠っているとき人は他者から完全に切り離されている。誰とも同じ夢を見ることはできないし、誰とも一緒に「眠る」ことはできない。たとえ隣で恋人が眠っていたとしても、それは眠っている他人だ。悪夢から目覚め、隣に眠る他人を目にするとき、その人が他人であることが一層身にしみて感じられる。私の悪夢の恐ろしさは私にしかわからない。その恐怖は隣に眠る人とでさえもわかちあうことができない。私は自分で自分をなだめるしかない。誰ともなにも共有することなどできないのだという絶望の内に。

「蚤の幽霊」は『新しい人よ眼ざめよ』の4作目であり、語り手とイーヨーの仲違いと和解が描かれた小説だ。そして仲違いと和解の鍵は「夢」にある。

新聞で三島由紀夫の生首を見たイーヨーはその死の象徴としての生首を恐怖とともに記憶した。そのことを語り手とその妻は心配している。また、語り手の家に遊びに来ている、三島由紀夫大江健三郎について研究しているアメリカ人の学生も、イーヨーが十数年前の三島由紀夫自決事件をしっかり記憶していることを憂慮しこう述べる。

ーーしかし何よりも、イーヨーの頭に、Mの「生首」の思い出がきざみつけられているのは、恐ろしい。障害のある子供の頭から、そのような悪い夢をどうやって取除いてやるのですか? プロフェッサー、天皇制的な宇宙構造について考えるよりも、本当はそのことがもっとも重要ではないですか?

語り手にはイーヨーが夢を見るのか見ないのか正確にはわからない。「夢」の定義を息子に教えるためには、そもそも彼が夢を見るのか否かわからないと教えることはできない。そのため何度も何度もイーヨーに「君が夢を見ないのは本当かい?」と尋ねることになった。その問いかけにうんざりしたイーヨーは次第に心を閉ざし、語り手との間には深い断絶が生じる。そして決定的な出来事が起きるのだ。

ただ、そこにさしかかるまでは大江健三郎特有の長い長い回り道がある。ウィリアム・ブレイクの詩から喚起されるイーヨーが見るであろう夢のイメージと、それを想像してしまう自分の内面の汚らわしさ、『懐かしい年への手紙』でも描かれる或る事件に端を発しての息子への憂慮とその憂慮への嫌悪。それらは確かに重要な側面なのだが、結局は語り手の内面の問題に過ぎない。文字通りの取り越し苦労。他者に対する傲慢な想像。

決定的な出来事について詳しくは書かない。嵐の晩、語り手とイーヨーは二人だけで別荘に出向く成り行きとなり、二人きりで一晩を過ごす。眠りについた語り手は悪夢を見てひどくうなされる。そのうなり声を耳にしたイーヨーがこう言うのだ。

ーー大丈夫ですよ、大丈夫ですよ! 夢だから、夢を見ているんですから! なんにも、ぜんぜん、恐くありません! 夢ですから!


そう、イーヨーは「夢」という概念を知っている。悪夢を見る人がいることを知っている。ということは、おそらく彼も悪夢を見たことがあるのだ。だからこそ父親を「大丈夫ですよ!夢ですから!」と励ますことができたのだ。

私はまたしても、いとも簡単にイーヨーに救われてしまう。
事実として、誰も私と同じ夢を見ることはできないし、誰も同じ悪夢を味わってくれることはない。同様に、私は愛する人の悪夢すらも一緒に見て一緒に恐がってあげることができない。
しかし、しかし私はその人を励ますことはできる。その人が恐がっているときに「大丈夫だよ!夢だから。恐がらなくて大丈夫だよ!」と言ってあげることはできる。そしてまた、私は自分自身にそれを言うこともできるだろう。
いや、できないかもしれない。ただ、それができるかもしれないと一縷の望みを持たせてくれるのが、イーヨーが父親を悪夢から救い出そうとして発する心からの励まし、私にも聞こえてくるその呼びかけなのだ。

新しい人よ眼ざめよ (講談社文庫)

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