大江健三郎「落ちる、落ちる、叫びながら……」と「蚤の幽霊」を読む

大江健三郎『新しい人よ眼ざめよ』の三編目「落ちる、落ちる、叫びながら……」と四編目「蚤の幽霊」はM(三島由紀夫)の自決をめぐる短篇だ。
「落ちる、落ちる、叫びながら……」では語り手が三島由紀夫の親衛隊員に思想的理由からネチネチと因縁をつけられるのだが、語り手が三島由紀夫信奉者にその政治思想を批判される場面では<語り手=大江健三郎>と解釈せざるを得ない。

ご存知のとおり、大江健三郎は左翼である。といっても、私は大江氏がどのような左翼思想を持っているのか具体的には知らない。小説には特に左翼思想は前面にあらわれてはいないからだ。『政治少年死す』が右翼団体の妨害により長らく発禁となっていたことは知っているが、その理由を聞いても「右翼がそこまで神経質に糾弾するような内容か?」としか思えなかった。
だが、右翼団体に「大江健三郎は憎むべき左翼だ」と認識されてしまったことは問題だ。誰でも知っているように『政治少年死す』事件以降、大江健三郎はたびたび右翼に陰湿なやり方で因縁をつけられるはめになったからだ。

もちろん左翼的思想を持つ小説家は他にもいる。自ら左翼だと公言している小説家には安部公房埴谷雄高島田雅彦がいるし、公言してはいないが小説やエッセイを読めば左翼(※論理的でまともな考えを持つ人)だとわかる小説家は村上春樹をはじめ五万といる。
だが、例えば村上春樹が右翼や保守派に因縁をつけられることはない。それは立ち回りが巧いか否かなのではなく、右翼にとっての利益不利益の有無なのだと思う。村上春樹原発反対派だが原発反対運動に参加してはいない。しかし、もし彼が今後左翼的運動に参加する事態になったら、右翼は彼を敵とみなし、大江健三郎に対するのと同じ態度をとるだろう。

話が逸れたが「落ちる、落ちる、叫びながら……」に救いがあるとすれば、プールで溺れかけたイーヨーを三島由紀夫親衛隊を率いる朱牟田さんが助けてくれるところだ。思想的に相反する人間が必ずしも敵ではないという事実をこの短篇は描いているのである。


「蚤の幽霊」は、三島由紀夫を研究しているアメリカの学生にイーヨーが「本当に背の低い人でしたよ。これくらいの人間でした!」と床から三十センチほどの高さに水平に掌をさしのべる場面から始まる。
それを見た語り手は、その高さは三島由紀夫が自決したときに新聞に載った彼の生首だと直感する。そしてイーヨーが生首のショックをひきずっていることを危ぶんでいる。

この場面について去年の『文學界』の何月号だったかで金井美恵子がある考察を述べていたのだが、それについてはもう少し経ってから分析することにしたい。

そして「蚤の幽霊」は結構長い話なので、今日はここで解釈をやめておき、次回続きを書くことにする。

新しい人よ眼ざめよ (講談社文庫)

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