大江健三郎「怒りの大気に冷たい嬰児が立ちあがって」を読む

大江健三郎『新しい人よ眼ざめよ』の二編目「怒りの大気に冷たい嬰児が立ちあがって」は、イーヨーが生まれつき障害を持っていると知らされた親がそれをどう受容していくかについての物語である。
この主題について大江健三郎は幾度も小説に書いているが、初期に書かれた感傷的かつエゴイスティックな『個人的な体験』に比べ、こちらはイーヨー自身の言葉が綴られていることもあり、ナルシシズムは息をひそめている。

この短編も「無垢の歌、経験の歌」と同様、ウィリアム・ブレイクの詩を通して語り手と息子の姿が捉えられる。というより『新しい人よ眼ざめよ』全体が語り手である作家のウィリアム・ブレイク読解と並行して描かれていると言ってよい。

「人間は労役しなければならず、悲しまねばならず、そして習わねばならず、忘れねばならず、そして帰ってゆかなければならぬ/そこからやって来た暗い谷へと、労役をまた新しく始めるために。」

語り手が引用するウィリアム・ブレイクのこの一節は端的に生きることの厳しさを表しており、読んでいるこちらもどんよりとした気分にさせられる。だが、この一節は真実だろう。もしそうではないと思うなら、あなたはとても恵まれている。

最初この一節を目にした語り手は詩の作者が誰であるかをわからぬままに大学時代を過ごし、何年もの時を経てその作者がウィリアム・ブレイクであることを突き止める。そのなりゆきも小説的に面白いのだが、今は省く。
また『新しい人よ眼ざめよ』後に書かれた「おかしな二人組三部作」や『水死』を読む上で重要なキーワードもこの短編に登場するのだが、それについても今は言及しない。

頭に瘤を持ち「正常な赤んぼうとちがって、親側の呼びかけになにひとつ反応しない」イーヨーの処遇をどうするか。語り手は大学時代の先生に相談する。そのときの先生の言葉に語り手のみならず私はおおいに衝撃を受けた。

「この時代には、生まれてこなかったより生まれてきたことが、必ずしも良かったとばかりはいえぬのだから」

これもまた事実であろう。それはこの小説が書かれた時代においても、今現在においても変わらない。今流行の反出生主義を援用するならば、そもそも生まれなければ苦痛も不幸も思考も感情も無いのだから、人間は生まない・生まれないほうが良いのだ。
とはいえ、それを生まれたばかりの障害児の先行きに悩んでいる人間に対して言ってしまう先生もどうかと思うが……。
なお、この「生まれること・生まれないこと」「生かすこと・殺すこと」については『個人的な体験』により詳しく書かれているので参考にされたい。

それはそうと、語り手は最終的にイーヨーを生かすことを選ぶ。「赤んぼうの肉体それ自体の生命への意志」を尊重したのだ。

イーヨーを育てる上で語り手とその妻が不安に思っているのは、自分たちが死んだ後にイーヨーがどう生きていけるか、どう「死」を受け止めるかである。そのため二人はイーヨーに対し「死」についての定義を教えようと苦心する。
しかしそこで最も言ってはならないことをイーヨーを叱っているときに口にしてしまう。すなわち「私たちが死んでしまった後、どうやって暮すの?」と。
それによりイーヨーは自分の殻に閉じこもってしまう。イーヨーのその姿を見ていた彼の妹はこう言う。


ーーイーヨーは、人指ゆびで、まっすぐ横に、眼を切るように涙をふいていたよ。……イーヨーの涙のふき方は、正しい。


両親に叱られてから、イーヨーは新聞の物故者欄を毎日読むようになる。また、自ら死を欲するように食事をあまり取らなくなる。
イーヨーはつらいのだ、親が自分より先に死んでしまうことが。だから親より先に死のうと考えたのではないか?
私も同じことをたまに考える。親より先に死んでしまえば、親が死んで絶望することはない。だから早く死んでしまおう、と。

しかしイーヨーは脳の腫瘍を手術で取り去ることに成功してから突然明るくなる。具体的に言えば、ふたつあった脳の一つを取り去ったことで、ひとつの脳でこれまで考えられていたより長く生きることが可能になったのだ。


ーーもうひとつの脳が死んでくれたから、イーヨー、きみはいま生きているんだよ。きみはいまの脳を大切にしてがんばって、長生きしなければならないね。

ーーそうです! がんばって長生きいたしましょう! シベリウスは九十二歳、スカルラッティは九十九歳、エドゥアルド・ディ・カプアは、百十二歳まで生きたのでしたよ! ああ! すごいものだなあ!


私はここにまたひとつの救いを見る。私の生死はどうでもいい。ただイーヨーには生きていてほしい、長生きしたいと望んでほしい。生まれたことを肯定してほしい。そう願うからだ。
もちろん私の願いはエゴなので、障害者の生に対するロマンチシズムとして批判されてもしかたがない。だが、それでもそう願わずにはいられない。
他の人はどうかわからないが、イーヨーが救われることで私が救われる。そのような力がこの物語にはある。

とはいえ、イーヨーは単に楽観的になったわけではないだろう。語り手はウィリアム・ブレイクの詩のこの一節を引用する。

「六千年の間、幼くして死んだ子供たちが怒り狂う。夥しい数の者らが怒り狂う。期待にみちた大気のなかで、裸で、蒼ざめて立ち、救われようとして。」

誰より救われたいのはイーヨーであり、また、語り手なのだ。

新しい人よ眼ざめよ (講談社文庫)

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